マッチと玉ねぎ(その1)-「ザ・ベストテン」再放送でふりかえる1980年-

子供の頃から「○○年鑑」とか「日本と世界の不易流行史」とか「創刊○周年記念~」みたいな歴史をひも解く百科事典の類が大好きだった。
我が家の狭い間取りでは、買いためた書籍を全て保管するのは不可能だったが、何冊か残している本がひょんなことから役に立つことがあり、無駄な知識が数年遅れで「教養」「雑学」として有効活用されるのは結構うれしいものだ。
今年はどうやったって「Stay Home」な日々が続いている中、CSのTBSチャンネルで2回にわたり放送された「ザ・ベストテン」の再放送を観て、その時代をおさらいしてみる気になりました。

◆番組について

「ザ・ベストテン」は1978年から1989年までTBS系列で、毎週木曜日の21時から放送されていた歌番組です。その時代に生きていた人なら、恐らく一度は観たことがあるでしょう。

レコード売上
ラジオのリクエストランキング
有線放送のリクエストランキング
④視聴者からのハガキリクエストランキング

以上4つの要素で、週間のランキングが決定、上位10曲の歌手が1時間の生放送に出演して歌う番組でした。
それまでは、テレビ局が出演者を考え、ベテランの歌手が最後に登場する歌番組が主流でした。しかし、この番組は、発売された歌を売上順でランキングし、その週で一番売れた歌を最後に流す方法が画期的でした。
他の音楽番組でよく見かける歌手のレコード売り上げが、実際のところは大したことないんだなあということが如実に出てしまいますので、ベテラン歌手やその所属事務所にとっては、戦々恐々だったと思います。

更に画期的だったのは、ランクインしても出演拒否する歌手がいたこと。今ならグループアイドルがギターやドラムを演奏してバンド扱いになるのは当たり前のことですが、1970年代から1980年代は、アイドル歌手、演歌歌手、フォーク・ニューミュージック系歌手の棲み分けがはっきりしていました。とりわけフォーク・ニューミュージック系歌手は、先駆者・吉田拓郎さんが「テレビに出ない」「ラジオDJとコンサート活動とアルバム制作メイン」というセールススタイルを確立したため、その方式に倣った人達が非常に多かったのです。
記念すべき第1回目の放送から、「わかれうた」の中島みゆきさんが出演拒否。で、番組が取ったスタンスは、ご本人が出演しない理由をきちんと明らかにするというものでした。この方法が斬新だと評判を呼び、かつ番組のランキング操作をしていないということで信頼を高めていったのです。

◆1980年はどんな年だったのか?

今回のブログで取り上げる放送回は1980年12月25日。年末最後の放送回でした。
では、1980年はどんな年だったのでしょうか。国内では、大平総理が急死し、鈴木善幸内閣が成立。音楽界では、人気歌手の山口百恵さんが引退、12月8日の暮れも押し迫った中、元ビートルズのMr.ジョン・レノンが暗殺されるというショッキングなニュースがありました。
当時、私は道産子の小学生です。外国人の死亡のニュースでは、チャップリンやスティーブ・マックイーンと同じくらい、脳裏に刻まれた事件でした。
また、「ルービックキューブ」という6面の立方体のおもちゃがブームになっていました。1980円(当時)でしたが、「欲しい」と口に出せない家庭環境もあって、遠巻きに眺めるだけでした。
買ってもらったのは、1981年の3月。親戚の結婚式で上京したときに、祖母が買ってくれました。しかし、カチャカチャ回し始めてすぐにピースの一つが外れ、ニセモノだったとわかったときの悲しさといったら…。ツクダオリジナルの本物を、数か月遅れで両親に買ってもらった時には、ブームも私の興味も下火になっていました。CMでは、今日まで傑作として有名なフジカラーの「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに写ります」が話題になった1年。
道産子としては、レイクプラシット冬季五輪で、スキージャンプの八木弘和選手が70m級(今でいうノーマルヒル)で銀メダル、フィギュアスケートの渡部絵美選手というのを覚えています。冬季は参加したのに、夏のモスクワ五輪を西側諸国がボイコットして、レスリングや柔道の選手が男泣きしていた姿が忘れられません。

◆年末最後のランキングと年間ランキングを1時間で紹介!

1980年12月25日の放送回の順位は(敬称略)

1位:恋人よ(五輪真弓)
2位:風は秋色(松田聖子)
3位:スニーカーぶるーす(近藤真彦)
4位:愛はかげろう(雅夢)
5位:Mr.ブルー~私の地球~(八神純子)
6位:若さのカタルシス(郷ひろみ)
7位:大阪しぐれ(都はるみ)
8位:セクシー・ナイト(三原順子)
9位:ひとり上手(中島みゆき)
10位:ハッとしてGood(田原俊彦)

1位と6位はコンサート会場からの中継でした。演歌の都はるみさんがランクインしているのも、有線放送の順位を集計していたベストテンならではで、9位の中島みゆきさんの欠席理由もはっきり話していました。
この年、アイドルの世代交代が起こりつつありまして、たのきんトリオの中から、トシちゃんとマッチが歌手デビュー、そこに松田聖子さんが加わり、1位争いを繰り広げます。
あとは、4位の雅夢と5位の八神純子さんもリアルタイムで知っている世代には懐かしい名前。
うちの姉は雅夢のファンで、明星の歌本を見ながら「愛はかげろう」をピアノ伴奏、小学生の私は、帰宅後何度も歌わされました(笑)。この2組と、9位の中島みゆきさんは、つま恋で開催されていた「ヤマハのポプコン」出身者です。フォーク・ニューミュージック系でデビューするための登竜門だったこのコンテストでは、入賞者が次々とデビューし、「ザ・ベストテン」や「夜のヒットスタジオ」に出演して積極的なテレビ展開をする人が多かったので、マッチ・トシちゃん・聖子さんらのアイドルと共に、歌番組の一大勢力になっていました。
ただし、デビュー曲に力を入れすぎるあまり、いわゆる一発屋になってしまった歌手もたくさん出たことが玉に瑕です。
中島みゆきさんの場合、自分の歌と他の歌手に提供した曲が何曲もランキングしていますが、ご本人は一度も出演することはありませんでした。
逆にその戦略が、歌手としての鮮度を保ったのかもしれません。

◆1980年「年間ベストテン」と売上げと「日本レコード大賞」の違い

通常のランキング発表後、CMをはさんで1980年の年間ベストテンをどどーんと発表、これを1時間で行うという忙しい回。
発表は50位から開始されました。まだこの時期は「豪華版」と呼ばれる長時間放送ではなかったので、スタジオに来るのは上位3曲の歌手のみ。
順位を観て驚いたのが、

1位:倖せさがして(五木ひろし)
3位:別れても好きな人(ロスインディオス&シルヴィア)(いずれも敬称略)

で、本放送で一度も1位を獲得していない演歌勢が上位に来ていたこと。1980年の年間売上1位はダンシング・オールナイト(もんた&ブラザーズ)だったのですが、「ザ・ベストテン」の基準でいくと年間2位だったってのが意外。1位獲得しなくてもロングセラーで20位以内に粘り強くいるとランキングする演歌の底力を見る思いでした。

更に驚くのは、当時は年末最大の風物詩だった「日本レコード大賞」の受賞曲。「雨の慕情(八代亜紀さん)」は、オリコン調べによると年間売上26位で41.2万枚です。ベストテンには、1980年7月17日放送回から約4週ランクインしますが、最高6位。
大賞受賞曲とレコード売上が一致しない年の方が多いというのは昔から言われていることです。おぼろげな記憶ですが、レコード大賞は「五・八戦争」と呼ばれる五木ひろしさんと八代亜紀さんの一騎打ちでした。

売上を優先させるレコード大賞なのか、歌手のキャリアと賞の与え時を考えたレコード大賞なのか。審査基準は毎年、変わっていました。TBS以外の民放各局は「日本歌謡大賞」を持ち回りで放映していましたが、こちらの受賞者と大晦日のレコード大賞の受賞者が違うケースなんていうのも数回あり、セールスする側(レコード会社や所属事務所)のロビー活動はどうだったんだろう?とビジネス手法の方に興味が沸きます。誰か出版してくれないかなあ。

「ザ・ベストテン」1980年12月25日の放送回については以上。
1982年5月6日放送回の考察は、次回に続きます。